被爆地広島・長崎には、政治や文化、スポーツなどの第一線で活躍する人々も数多く訪れました。核兵器廃絶を訴え続ける「原点」とも言える地で、何を考え、どんな言葉を残したのか。広島の平和記念資料館と長崎の長崎原爆資料館の「芳名録」に記されたメッセージを手がかりにたどりたいと思います。
《長崎では悪魔の行いを見た。核を作った人、武器を作った人、武器として使った人に資料館を見てもらい、その恐ろしさをわかってほしい》(1982年4月26日、長崎市の原爆資料館で)
まだ肌寒さの残る季節だった。1982年4月25日、マザー・テレサは長崎市を訪れた。当時71歳の小柄な体がまとっていたのは、白地に3本の青いしまが入った質素な木綿のサリーと、着古したカーディガンだけだった。
翌26日には原爆落下中心地と原爆資料館を訪問。館内では上半身のケロイドをあらわにした男性の写真パネルに見入った。館内の案内役を務めたのが、その写真の男性、故・山口仙二さんだった。山口さんは2カ月後に、被爆者として初めて国連で演説し、「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と訴えたことで知られる人物だ。
原爆の被害の深刻さを伝える資料を目の当たりにしたマザー・テレサはこう語った。《長崎では悪魔の行いを見た。核を作った人、武器を作った人、武器として使った人に資料館を見てもらい、その恐ろしさをわかってほしい》
そして山口さんに「あなたの尊い今の仕事が続けられるように、神があなたを生かしてくれた」と語りかけた。
被爆者の手、両手で握り…
84年11月の再来日の際には、広島市を訪れた。
広島市中区のカトリック幟町…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル